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八丁堀さんぽ その3

伊能忠敬(いのうただたか)の没地

亀島橋の渡り口の案内板
  • 伊能忠敬は、下総の佐原(現千葉県香取市)で、事業家として成功した。
  • その後49歳で隠居し、50歳のときまさに五十の手習いの諺を地で行くかの如く江戸に出て、天文・暦学を学び始めた。
  • 1801年(享和1年)、56歳で徒歩による全国測量を始め、延べ3737日、約4万kmの測量を72歳で終えて、「日本沿岸興地全国・実測録」を編纂した。
  • その後、1814年(文化11年)から4年間、亀島橋の八丁堀側のたもとに住居を移し、この地で亡くなった。
  • 隠居後、在職中を遥かに上回る大仕事を達成したことが、いまの世の中の関心をよんで、静かなブームとなっている。

写楽の正体

二代目嵐龍蔵の金貸石部金吉/三代目大谷鬼次の江戸兵衛
  • 10か月の期間内に、145点余の作品を版行した浮世絵師・東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)=能役者・斎藤十郎兵衛の正体について、以下の根拠が有力視されている。
  • 1.能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、斎藤十郎兵衛の記載があることが確認されている。
  • 2.蜂須賀家の古文書である『蜂須賀家無足以下分限帳』及び『御両国(阿波と淡路)無足以下分限帳』の「御役者」の項目に、斉藤十郎兵衛の名が記載されていたことが確認されている。
  • 3.江戸の文化人について記した『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に「写楽斎 地蔵橋」との記録があり、八丁堀地蔵橋に“写楽斎”と称する人物が住んでいたことが確認されている。
  • 4.埼玉県越谷市の浄土真宗本願寺派今日山法光寺の過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が文政3年(1820年)3月7日に58歳で死去し、千住にて火葬されたとの 記述が平成9年(1997年)に発見され、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛という人物が八丁堀地蔵橋(現在の日本橋茅場町郵便局の辺り)に住んでいたことが確認されている。

堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)

堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)之碑
  • 「忠臣蔵」で知られる赤穂義士の一人、堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)。
  • 1671年(寛文11年)新潟に生まれた彼は、赤穂淺野家家臣・堀部家へ婿養子に入ったが、 その当時住んでいたのが亀島橋の八丁堀側のたもと、亀島町と呼ばれた現在の八丁堀一丁目あたりだったと言われている。
  • 1701年(元禄14年)、武庸の主君、淺野長矩(あさのながのり)が江戸城内で吉良義央(きらよしなか)を切りつけ即日切腹、領地は没収となった。
  • 武庸はその結果を不服とし、淺野家家臣たちに義央への仇討ちを熱心に語りかけ、そして翌1702年(元禄15年)、赤穂藩筆頭老・大石良雄(おおいしよしたか)を中心に47名の家臣が仇討ちを果たす。 仇討ち後、武庸たちはこの亀島橋を渡って主君・淺野長矩の眠る泉岳寺へ向かったともいわれている。